フィクションに手柄を奪われた人

人の手柄を横取りするような人が周りにいらっしゃいますか?
今回は、後世のフィクションに手柄を奪われた歴史上の人物をご紹介します。

前田利家

豊臣政権の五大老の一人であり、加賀百万石の前田家の祖(実際に石高が百万石を超えたのは利家の次の世代ですが)として有名な前田利家も実はフィクションの被害にあっています。

老いては豊臣政権の五大老となった前田利家も、若い時は血気盛んな傾奇者でした。
男性の平均身長が160cmぐらいの時代に180cmを超える大男で、かつ端正な顔立ちだった利家は、初陣では(当時の名前は犬千代)自ら朱色に塗った6m以上の長い槍を使って首級ひとつを挙げる功を立て、主君の信長に「肝に毛が生えている」と称賛されました。
その後も「槍の又左」の異名通り、織田家の中で武功を上げます。

この時代の武将らしく、武辺一辺倒ではなく茶の湯や学問も積極的に学び、特に能を好んだようです。

さて、傾奇者の前田といえば利家の甥の前田利益(慶次)が有名です。
厳密にいえば、週刊少年ジャンプに連載していた漫画「花の慶次」で有名になったと言えるでしょう。

利益に関してはもともと資料があまり残っておらず、残されている逸話も創作のものが多く含まれていると言われています。
使用していた具足から身長は平均並みだったようで、大男だったという話や様々な逸話も前田利家のものを利益のエピソードそしてフィクションとして語られてきたようです。

毛利勝永

前田利家はフィクションにエピソードを奪われたといった程度で本人も有名ですが、毛利勝永は存在すら知られていないかもしれません。

さて、毛利勝永は大阪の陣で活躍した武将です。
尾張の国の生まれで、中国地方の毛利家とは関係がないようです。

戦死した後藤基次隊の敗残兵を収容し、巧みな用兵で撤退戦を成功させ、翌日の天王寺口の戦いにおいて、家康の陣の前方を固める東軍の名だたる武将を撃破し、徳川家康の本陣に突入する活躍を見せました。

毛利勝永なる人物は、真田幸村のように活躍をしたのかと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、「真田幸村」はフィクションの人物で、実在したのは「真田信繁」です。
真田幸村は実在した真田信繁をモデルにした講談の人物と言えるでしょう。

もちろん、真田信繁も大坂の陣で活躍をしたというのは、どなたもご存知の通りです。
しかし、毛利勝永の手柄が講談で真田幸村のものになってしまい、江戸時代にも「真田を言いて毛利を言わず」と不遇だという評価をされてようです。

韓世忠

フィクションに手柄を奪われた人は、もちろん我が国だけではありません。

中国の宋の時代に姓は韓、名は世忠、字は良臣という武勇に優れた人がいました。
女真族が金を建国し、宋に攻め込んできたときに抵抗した抗金の名将として数えられる武将です。

時代は女真族が攻めてくる以前の話です。
江南地方で方臘という人物が反乱を起こしました。

韓世忠は一人の将校として方臘の乱の鎮圧に参加しました。
目覚ましい活躍をし、将軍の王淵から「万人敵」と賞賛されることになります。
方臘を捕らえて捕虜にするという手柄を立てたのですが、辛興宗という人物に手柄を横取りされてしまいます。

さて、水滸伝の名前はご存知のことかと思います。
施耐庵(羅貫中という説もあり)という人物が、講談をもとに書いたフィクションですが、物語のクライマックスはこの方臘の乱で、梁山泊軍が戦って鎮圧するというストーリーになっています。
物語の中では魯智深が方臘を捕らえます。

韓世忠は方臘の乱という出来事において、実際とフィクションとの両方において他人に手柄を奪われたということでご紹介しました。

最後に

フィクションである小説や漫画を真に受けるのは読み手の問題です。
とはいうものの、小説や漫画の話や設定の内、どこまで史実でどこからがフィクションなのかは判別しづらいのも事実でしょう。

歴史上の人物のフィクションによって手柄を奪われたことが明確な3人をご紹介しました。
よろしければ、話の種として使ってください。

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