歴史に学ぶ経営(孫臏)

紀元前6世紀ごろの中国の春秋時代の武将・思想家である孫子、あるいは孫子の残したとされる兵法書のことはご存知の方も多いかと思われます。
孫子というのは尊称で、孫武というのが実際の名前になります。
この孫子の子孫とされている孫臏(そんぴん)もまた、孫子と呼ばれていました。

今回は孫臏のエピソードから、経営について考えていきたいと思います。

田忌、馬を競う

孫臏の時代は戦国時代と呼ばれている時代で、群雄割拠の時代でした。

魏に士官していた孫臏は、一緒に兵法を学んだ龐涓に陥れられ両脚を切り落とされ、顔に入れ墨を入れられる刑罰に処せられました。
斉の使者が魏に来た際に、孫臏は同行して魏を脱出し、以後は斉に仕えることになります。

斉の大将軍である田忌と会うことができた孫臏が三日三晩兵法を説いたことで、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなしました。

さて、当時の斉の王族や貴族の間では競馬が最も人気のある娯楽でした。
自身の馬を相手の馬と競争させ、それが賭けの対象になるというものです。
田忌もよく国王や他の大臣たちと賭けをしていたのですが、これまで負けてばかりいました。

次の競馬の際に孫臏は田忌と同行しました。
それぞれの馬を見て、それぞれ速さを上中下に等級分けができると判断し、相手の上の馬には自分の下の馬、相手の中の馬には自分の上の馬、相手の下の馬には自分の中の馬で対戦するように田忌にアドバイスをします。
その結果、相手の上の馬には負けるものの、中の馬、下の馬には勝ち、2勝1敗の勝ち越しで見事に勝利となりました。

桂陵の戦い

ある時、魏は趙に侵攻します。
劣勢だった趙は、ついに都の邯鄲を魏軍に包囲されてしまい、同盟国の斉に援軍を求めました。
斉王は、田忌と孫臏を趙の救出に向かわせます。

その際に、孫臏は田忌に対して、趙に侵攻している精鋭部隊ぞろいの魏軍を攻撃するのではなく、弱兵しかいない魏の都の大梁を攻めるように進言します。
田忌は孫臏の進言を受け入れて、魏の都の大梁に向かって進軍し、大梁を包囲します。
その結果、趙に侵攻していた魏軍は、自国の都を守るために趙から撤退します。

田忌と孫臏は、桂陵にて魏軍を待ち伏せし、慌てて戻ってきた魏軍を打ち破り、趙の救出と魏の弱体化の両方を果たすことができました。

馬陵の戦い

かつて孫臏を陥れた龐涓は魏の中で頭角を現します。

ある時、魏は太子の申を総大将、龐涓を副将として趙と連合して韓に侵攻します。
韓から助けを求められた斉王は、田忌と孫臏を趙の救出に向かわせます。

田忌は再度、都の大梁を攻めますが、魏は前回の反省から大梁に精鋭部隊を残しておいたため、前回のようにうまくいきませんでした。
魏は斉軍を足止めしつつ、韓に侵攻していた軍を引き換えさせ、挟み撃ちにしようとしました。

そこで、孫臏は田忌に次の作戦を進言します。
撤退をしながら、宿営地のかまどの数を減らすことで、兵隊が脱走しているように偽装することで、魏軍の油断を誘うことを狙ったものでした。

相手の数が減っていると誤認した魏軍は、スピードの速い部隊のみで追撃を行いました。
その結果、馬陵の地で斉軍の待ち伏せに会い、龐涓はその場で自害、魏の太子の申を捕虜にするという戦果をあげました。

どこで勝負をするか

3つの例に共通していることは、徹底して相手の強み(ストロングポイント)と正面から戦っていないということです。
相手の強みと正面から戦うと、負けてしまう、勝ったとしても自身のダメージが大きくなる可能性が高いからです。

よく戦略の策定においてSWOT分析が用いられますが、強みをピックアップする際に「得意だから強みである」と判断するのは危険です。

SWOT分析でいうところの「強み」「弱み」はあくまでも相対的なものですので、得意かどうかという視点だけでなく、競争優位かどうかという視点が求められます。

あくまでも競合と比較した上で、優位であれば「強み」であり、得意であろうが比較して劣っていれば「強み」とは言えません。
逆に、自身が得意だと思っていなかったとしても、競合よりも優れていれば、それは「強み」となります。

最後に

SWOT分析を例にしましたが、市場に自社と顧客と競合の3者が存在する以上、自社のことしか見ないでの戦略策定では不完全です。
自社の立ち位置を競合との比較の中で考える必要があります。
その上で、相手の強い所を避けることができるかいう視点が必要だといえるでしょう。

参考になれば幸いです。