歴史人物に学ぶ経営(蒲生氏郷)

歴史上の人物には、現代に生きる我々には想像もつかない人生を歩んだ人も多くいます。
そういった方々から学ぶことも多いと考えられます。
今回はリーダーシップの参考になるであろう、蒲生氏郷を取り上げます。

蒲生氏郷について

蒲生氏郷は弘治2年(1556年)、近江の国に蒲生賢秀の嫡男として生まれました。
蒲生家の仕える六角家が織田信長に滅ぼされ、幼い時の氏郷は人質として差し出されました。
織田信長は氏郷が非凡なことを見抜き、娘を娶らせて非常に寵愛します。
その後、蒲生氏郷は実際に多くの武功を立てることになります。

織田信長の死後は豊臣秀吉にも非常に高く評価され、最終的には奥州に91万石の領地を秀吉より与えられます。
当時は徳川家康が万石、毛利輝元が万石でしたが、この2人に次いで大きな領地を持っていたことになります。

文禄元年(1592年)、文禄の役参戦するために名護屋城へと参陣した際に陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)に40歳の若さで世を去りました。

また、利休七哲の筆頭となるほど茶の湯に増資が深く、洗礼名をレオンというキリシタン大名だったという一面もありました。

蒲生風呂

貢献した家臣には報酬で報いるべきですが、若いころの氏郷は知行地も少なく、報酬を出すことができませんでした。
そこで、家臣を家に招き、当時は風呂は最高の贅沢とされていた風呂でもてなしました。
しかも、氏郷自らが煤だらけになりながら沸かしていたとのことで、もてなされた家臣は感動したとされています。
以降、蒲生風呂と呼ばれて、氏郷に風呂に招かれることが蒲生家中の誉となったとのことです。

元々は報酬を与える余裕がないことからの苦肉の策だったのかもしれませんが、単に労働力の提供と、その対価としての給与という関係ではなく、自分ができるもてなしとそれに応えようとする関係性の方が、団結力は高まるでしょう。

経営者として、従業員の方々へのねぎらいの気持ちを持ちを何らかの形で伝えることが必要なのかもしれません。

知行と情とは車の両輪、鳥の翅の如し

また、氏郷は「知行と情とは車の両輪、鳥の翅の如し」だと言っています。
言葉を変えると「給与と愛情、どちらも大事である」となるでしょう。

経営学において仕事への満足度に関わる要因は「動機付け要因」と「衛生要因」の2つ分類に分けられると言われています。
動機付け要因は、達成感や周囲からの承認、昇進といったものが該当し、高い程仕事の満足度に影響します。
衛生要因は、職場環境、対人関係、給与といったものが該当し、低いと不満足に感じるものの、高いからと言って満足度が上がる訳ではないといった性質があります。

給与さえ渡していれば、家臣は不満を抱かずに働くだろうとは考えていなかったことが分かります。

鯰尾の兜

氏郷は初陣以来、戦場ではずっと先頭を切って戦っていました。
それは大名になってからも変わらなかったようです。

新参者の家臣に「鯰尾の兜をかぶり先陣する者がいるが、そいつに負けぬように働け」と激励したと言われています。
鯰尾の兜をかぶっているのは氏郷自身で、常に自らが先頭に立って家臣を背中で引っ張るタイプだったようです。

経営者と従業員の方々とでは仕事が異なりますが、経営者が何をやっているのかよく分からないと思われているよりも、経営者が率先して仕事をしていると感じていただいた方が、社内のモチベーションは高いと考えられます。

優秀な小姓をクビにする

非常に利発な若者を推薦され、小姓として取り立てました。
しかし、氏郷はこの小姓をすぐに首にしてしまいます。
推薦した人が不思議に思って氏郷に訪ねると、氏郷は「自分が気に入っている人間のことを良く報告し、嫌いな家臣のことを悪く報告するから」というものでした。
正確な情報ではなく、相手を見て言う内容を変える人間は役に立たないと判断したということです。

組織がある程度の規模になると○○派、××派といった派閥やグループが出来ることもあります。
それ自体は防ぐことはできないにしても、客観的な情報に基づいて判断をしなければ不利益を被りかねません。
氏郷は自分の好き嫌いは別として、情報の正確性を重んじていたと言えるでしょう。

戦場と畳の上

後に近江高島藩主、信濃飯山藩主となる佐久間安政が蒲生家に召し抱えられたときのエピソードです。

安政が氏郷にあいさつに出向いた際に、畳のへりに躓いて転んでしましました。
これを見た小姓たちは笑いましたが、氏郷は小姓たちを一喝し、「畳に慣れない程、戦場で働いてきた証である」と言って小姓たちを叱り、安政の面子を保ちました。

とっさに同じことをやれと言われても難しいとは思われますが、リーダーとして素晴らしい対応であることは間違いないでしょう。

最後に

氏郷は気前が良い性格ではありましたが、軍紀は非常に厳しかったと言われています。
待遇や家臣への接し方だけでなく、組織として締めることろはしっかりと締めていることで、強い組織となり、結果として成果を上げつづけたんだと考えられます。

組織のリーダーとして参考になる点があれば幸いです。

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