歴史に学ぶ経営(項羽と劉邦)

楚漢戦争は、中国で紀元前206年から紀元前202年に渡り、漢と楚の間で繰り広げられた壮絶な戦争です。
最終的には劉邦が率いる漢が、項羽率いる楚を打ち破り、中国を統一することに成功しました。

楚の項羽、漢の劉邦の2人の違いから経営について学んでいきたいと思います。

項羽について

姓は項、名は籍、字が羽であり、一般的には名の籍よりも字の羽の方が有名です。
元々秦に滅ぼされた楚の将軍を代々務めた名家の一族で、項羽は中国の歴史上最も勇猛といわれる人物です。

紀元前209年、秦の暴政に対する反乱の指導者として叔父の項梁とともに挙兵し、「雍丘平」という戦いで秦軍を破った後は西楚の覇王と称し、一時的に権力を掌握しました。
しかし、漢の劉邦との間に対立が生じ、垓下の戦いに敗れ、その後烏江で自刎しました。

劉邦について

姓は劉、名は邦、字が季であり、農民出身で中年期までろくな定職も持たない、いわゆる無頼の徒といった存在だったものの、人望があって周りからは好かれる性格でした。

紀元前209年、仲間と共に挙兵し、勝ち負けを繰り返しながら勢力を増やしていきました。
項羽との間に対立が生じた後も何度か項羽に敗れていますが、垓下の戦いにて項羽を破り、紀元前202年に皇帝に即位しました。

項羽と劉邦の違い

始皇帝の行列を見た際に、項羽は「彼取って代わるべき也」、それに対して劉邦は「大丈夫如此くあるべき也」と言ったとされていますが、このことからも2人の性格、人間性に大きな違いがあることが伺えます。

さて、個人の能力で言えば、圧倒的に項羽の方が上だったと考えられます。

張良、蕭何と並び、劉邦の天下統一を支えた漢の三傑の一人の韓信は、項羽の人物像について劉邦に尋ねられた際に項羽自身は万夫不当の将なれどど、匹夫の勇、婦人の仁だと答えたとされています。

項羽自身は優れた将ではあるものの、配下に仕事を任せられない、ささいな事にはこまごまと同情するが、褒賞を与える段になるとケチってしまう性格である、つまり項羽自身は優れた将ではあるものの、トップの器ではないと言っています。

それに対して、劉邦に対してはせいぜい10万人の兵を率いる能力しかない、自分は多ければ多い程良いと言った上で、兵を率いることはできなくても、将を率いることができると評しています。

これは劉邦自身も天下統一後に「自分は張良のように謀を考えることはできないし、蕭何のように後方支援もできない。韓信のように兵を率いて勝つこともできない。でも、この有能な3人を使いこなすことができたかから項羽に勝てた。項羽は范増1人すら使いこなす事ができなかった。」と語っています。

最後に

項羽と劉邦という対照的な2人は、それぞれ組織のトップに必要なことを示しています。

本人の能力がいくら高かったとしても、一人でできることには限度があります。
本人の能力がそこまでではなくても、能力のある人間をちゃんと能力を発揮する環境を用意し、責任と権限を与えた上で功績に対して評価をすれば、それだけ成果を上げることができます。

組織のトップに求められる能力の一つとして、自身が業務を行う能力ではなく、人を使う能力が挙げられるのではないでしょうか。

以上、参考になれば幸いです。

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