大名の家督相続

毎年中小企業白書に取り上げられているように、事業承継は中小企業にとって大きな課題の一つです。
後継者の選択、育成、承継のタイミングなど、企業によって正解も異なり、単に経営者が交代したらそれで完了と言う訳ではありません。

さて、同様の問題をかつての大名達も抱えていました。
いわゆる家督の相続です。

誰がお家を継ぐかは、大名家の浮沈にも大きく関わる問題です。
まさに、企業の事業承継と大名の家督の相続は同様のものだと言えるでしょう。

印象的な家督相続の例を3つご紹介いたします。

上杉家のケース

長尾景虎(後の上杉謙信)は、山内上杉家の家督を継いで関東管領職に就いたのは皆さんよくご存じのことです。
その後、越中・能登や関東で度々戦をすることになるのですが、居城の春日山城内に戻った際に厠で倒れてそのまま亡くなりました。

謙信は誰を後継者にするのか決めていたかったため、景勝・景虎の2人の養子がどちらが後を継ぐかで内乱が起こってしまいます。
これが御館の乱と呼ばれるものです。

景勝が勝つことになるのですが、この争いによって上杉家の軍事力は弱体したばかりでなく、恩賞を巡って景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらすことになりました。
また、内乱の隙を突いて、織田家の柴田勝家や蘆名家の侵攻を許すことになります。

自分にいつ、何が起こるか分からない訳ですから、後継者は早いうちに決めておいた方が良いかもしれません。

応仁の乱

家督を継ぐのが誰になるのかということが原因で内紛が起こることはしばしばありましたが、応仁の乱は幕府を二分するほどの規模になった相続争いです。

8代将軍足利義政は世継ぎがいなかったため、実弟の義視を養子に迎えましたが、日野富子との間に息子(義尚)が生まれたため、世継ぎを義尚としました。
日野富子は山名宗全、義視は細川勝元と、それぞれが大きな力を持つ2人に後ろ盾を依頼します(近年では、富子の依頼で山名宗全が義尚の後見人になったことに対して反証が挙げられているようです)。

管領である畠山持国も同様に跡継ぎに実弟の持富を養子に迎えていたものの、義夏(後の畠山義就)が生まれたために、持富を廃嫡しました。
同様に有力大名である斯波家でも、義健の養子である義敏が家臣との対立を理由に8代将軍足利義政の怒りに触れて罷免され、足利義政は斯波家の家督を斯波義廉に変えるといった悶着がありました。

その結果、西軍(足利義尚・山名宗全・畠山義就・斯波義廉)と東軍(足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏)に分かれて応仁の乱が起こります。

方々の大名がそれぞれの思惑で参戦したため、両軍の大将である山名宗全と細川勝元が死んだ後も収まらず、11年間続くことになりました。
京の都は荒廃してしまい、その後室町幕府は衰退の一途を辿ることになります。

後継者を決定することはナーバスな話なのですが、変更するとなるとより慎重に行う必要があるのでしょう。

浅井家のケース

家督の相続はトラブルばかりではありません。
織田信長の義弟である浅井長政は、ちょっと変わった家督の相続の仕方をしています。

浅井長政の祖父である浅井亮政は、北近江の守護である京極家に仕えていましたが、下剋上で北近江を支配することに成功しました。
しかし、その息子の久政は南近江の守護である六角義賢に戦で負け、北近江を手放して六角氏に従属するようになっていました。

浅井賢政(長政)が15歳の時に六角軍を相手に野良田の戦いで見事な勝利します。
浅井軍の兵は11,000人、六角軍は25,000人と、2倍以上の兵力差にも関わらず見事勝利をしたことで重臣達の心をつかみました。

弱腰の久政に対して不満があった家臣たちは、久政を長政は家督を隠居を強要し、長政は強奪に近い形で家督を相続することになりました。

その後、織田家と同盟を結び、織田信長の妹であるお市の方と政略結婚をしますが、織田家が朝倉家と争いになったときに朝倉方に味方し、信長に滅ぼされてしまうのはご存知の通りです。

久政は隠居してもなおも発言力があり、強硬に朝倉方につくように主張したために長政も折れることになったようです。
歴史に「たら」「れば」は無意味ですが、家督を譲ったら口出しをしない方が良いのかもしれません。

最後に

大名の家督相続と事業承継には共通点があると思い、いくつかの例を紹介しました。

後継者をちゃんと決めておくこと、決めたら変更には万全を期すこと、承継したら後は任せて口出しは控えること、全ての企業の事業承継に当てはまるかどうかは分かりませんが、この3つの例からは以上のことが言えそうです。

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