暴れん坊将軍の改革

江戸時代に行われた三大改革と言えば、享保の改革、寛政の改革、天保の改革です。
享保の改革は、江戸幕府中興の祖とも称される、暴れん坊将軍で有名な江戸幕府第8代将軍である徳川吉宗によって行われたものですが、具体的な内容はお忘れになっている方も多いのではないでしょうか。
企業の経営にも通じる享保の改革について、軽くおさらいしてみましょう。

幕府の状況

初代家康によって開かれた江戸幕府は、豊臣家や敵対する大名との戦いに勝つことで直轄地を増やし、手に入れた鉱山を開発するなどして3代目の家光の代までは非常に裕福でした。

しかし、4代の家綱の時代に江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した明暦の大火が起こります。
江戸の復興に多くの費用がかかったため、家康以来の貯蓄を失います。
さらに、年貢の量や鉱山からの金銀の採掘量が頭打ちになってしまい、財政状態が傾き始めます。

跡継ぎがないまま病没した家綱の後は、弟の綱吉が5代目として将軍を継ぎます。
生類憐みの令に代表される悪政で名の知れた綱吉も、治世の前半は善政として評されていたようです。
しかし、信心深かった綱吉は、寺社の造営や復興に莫大な資金を費やし、幕府の財政をさらに悪化させることになります。

また、小判の金の割合を減らして銀の割合を増やし、銀貨においても銀を割合を減らして銅の割合を増やす改鋳が行われました。
金や銀の含有量を減らすことで幕府や金貨や銀貨の鋳造量を増やすことができました。
その結果、収入は増加したものの、貨幣価値が下落したためにインフレを起こし、経済は混乱しました。

その結果、幕府は本格的に財政を立て直す必要に迫られます。

吉宗について

第7代将軍の家継は数え年で8歳で夭折します。
徳川宗家の血統が途絶えたため、水戸、尾張、紀伊の御三家から将軍が選ばれることになります。
大奥や幕臣の支持を得て、紀州藩主の吉宗が8代将軍に迎えられました。

さて、財政難の苦しんでいたのは幕府だけではなく、諸大名も同じでした。
紀伊藩主に就任した吉宗は倹約とコストカット、新田開発による年貢の増加を行いました。
その結果、紀伊藩の財政は大幅に改善されることになります。

この功績も理由の一つと考えられます。

享保の改革

将軍になった後、目安箱の設置、小石川養生所の設立、キリスト教には関係のない漢訳洋書の輸入の緩和といった様々な改革を推し進めました。
特に財政に直結する内容をご紹介すると、紀伊藩主時代と同様の倹約、大奥の人数を4000人から1300人まで削減するといったコストカットの徹底、そして新田開発を推し進めたということが挙げられます。

新田開発の効果が出るまでは一定の期間が必要であり、それまでの間は他の方法でしのぐ必要があります。
吉宗は幕府の財政状況を開示した上で、諸大名から米を上納させます。
その見返りとして、参勤交代時の江戸滞在期間を1年から半年に短縮することで、諸大名の負担の軽減を図りました。

改革の開始から10年以上を要しましたが、幕府の財政は黒字基調に転じ、幕府の財政を安定させることになります。

庶民にまで倹約を強いたことによって経済や文化の停滞を招いたこと、年貢の割合を増やしたことで農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いたことも付記しておきます。

最後に

どうしても景気が悪い状況になるとコストカットに目が行きがちです。
余計なコストを減らすのは正しい選択と言えるでしょうが、あくまでも一時しのぎの対策にならざるを得ません。

売上につながるような費用も減らしてしまうと、ただでさえ売上が下がり気味の状況なのに、さらに売上が下がるといったことになりかねません。

どのような場合でも、コストのカットと売上の向上策はセットで考える必要があると考えられますがいかがでしょうか。